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November 25 2011

モデル倉本庸子のワードローブ&私物コーディネート大公開!
私服のオシャレに定評のあるやっこちゃん。彼女なりの掟があり、そのさじ加減ひとつで、気持ちが上がったり、自身が持てたりするそう。そんなやっこちゃんの掟を教えてもらいました!

November 24 2011

Tでも10年かかるなら、、、

僕が通っていた中学校は結構な進学校だった。進学校に通って良かったのは、人生の早いタイミングで、人生に対してある種の見切りを付ける事ができた、ということだと思っている。自分の頭の良さというのは、本当に頭のいい奴に立ち向かって歯が立つ程に良くはないんだろう、という諦めの境地に早く到達することができた、ということだ。

そのきっかけになったのが、中学1年の1学期にあった数学の授業だ。詳しい授業内容は忘れたが、幾何の証明問題が出されて、当てられた奴が黒板に証明を書く、という授業だった。もう少し正確に書くと、当てられた奴は黒板に証明を書き、当てられていない奴は漫画を読み、教官は「いいね!」と言いながらただ黒板に赤丸を書くという授業だった。

僕は幸い当てられなかったので、ジャンプを読んでいたのだが、隣に座っていたYが「Tが書いてる字読める?」と聞いて来た。ジャンプを読むのに忙しかった僕は、チラっと黒板に目をやり、「"a"じゃないの?Tは左利きだから、"a"を書くとあんなかんじになるんだと思うよ」ともっともらしい事を言っておいた。するとYは食い下がり、「じゃあさ、"a"の上にある矢印みたいなやつは何なわけ?」と聞いてきた。確かに見た事のない組み合わせだったので、「うーん。何か変だね」と同意した。でも、教官は「いいね!」と言って赤丸を書いただけだったので、結局僕たちの疑問は解決しないままその日の授業は終わった。

その後、Tは親の事情でアメリカの学校に転校し、僕は持ち上がりで高校に進学した。そこで僕は、Tが「ベクトル」を使って中学校の幾何の証明問題を解いていたことを知った。あの"a"みたいな文字は"α"だったのだ。高校生になって初めてベクトルを知った僕と、小学生の時にベクトルを理解していたTとの差に気付いた*1僕は、桑田を見て投手を諦めた清原のように、「お勉強」で生きて行くという道を捨てることを決めた。


そのTがアメリカに渡り、どうやって英語をマスターしたか?という話を彼のブログに書いている。

10年という短期間で英語をマスターする方法

近道はない。本当にない。残念だけどない。多くの日本人が英語が下手なのは、どれだけ膨大な時間がかかるかをわかっておらず、Year 3-4あたりで停滞してしまい、なおかつそれが限界だと信じているからだ。ここで言うYear 3-4というのは、「英語を10年でマスターすると仮定した時の3−4年目あたりの習熟度」という意味だ。要は、「できないわけじゃないけど、できるわけでもない」レベルである。特に、大人になってからビジネススクールなどで海外に出た人のほとんどはYear 3-4で停滞している。そういった人たちが(1)さも英語ができるようなふりをしたり、(2)英語ができるなんてのは大したスキルではないとうそぶいたりしていることは、日本で英語を学んでいる人たちに誤った信号を発信している。

でも安心してほしい。ここに書いてあることを忠実に10年間続けたら、ネイティブも舌を巻く英語使いに絶対になれる。カンタンではないけれど、フカノウでもない。

彼のメッセージは「努力すれば、10年で英語をマスターできるよ」というものだ。でも、中学生だったTに人生を諦めさせられた僕からすると、Tですら10年かかった英語を10年でマスターするというのは、もうスッパリと諦めざるを得ない。もう「頭の良さ」と「英語力」はTに任せる。その代わり、「頭の良さ」や「英語力」じゃない何かで、Tに刺激を与えられるような人間になれたらいいなと思う。

*1:さらにその後、Tの横で証明をしていたO(数学オリンピック最年少出場)が、複素平面上で三角形を回転させることで証明していたことを知る

November 22 2011

第11回 河合臨床哲学シンポジウム

12月11日に木村敏先生の河合臨床哲学シンポジウムでお話させて頂きます。

テーマなど詳細はリンク先でhttp://www.kawai-juku.ac.jp/event/e_detail.php?event_num=0000020089

◆開会挨拶・全体討論
木村 敏

◆シンポジスト
花村 誠一
柴山 雅俊
川瀬 雅也
村上 靖彦

◆コメンテーター
野家 啓一 
津田 均 

◆司 会
谷  徹
内海 健 

◇◆プログラム◆◇
11:00 村上 靖彦(発表1)
   「生と死の境目における対人関係=看護師へのインタビューから」
   ・コメンテーターとの討論

12:00 柴山 雅俊(発表2)
   「解離の病態における自己と他者」
   ・コメンテーターとの討論

13:00 昼食(~14:00) 

14:00 川瀬 雅也 (発表3)
   「思い出せない他者・忘れられない他者」
   ・コメンテーターとの討論

15:00 花村 誠一 (発表4) 
   「統合失調症における他者と強度」
   ・コメンテーターとの討論

16:00 休憩(~16:15)

16:15 全体討論(~18:00)


対 象
高卒生・高校生・中学生・保護者・高卒認定を目指す人・帰国生・大学生・一般(社会人)
日 程
2011年12月11日(日)
11時00分 ~ 18時00分
会 場
東京大学鉄門記念講堂
住所:〒113-0033 東京都文京区本郷七丁目3番号1号 医学部教育研究棟14F
道順:◎東京メトロ丸ノ内線・都営大江戸線「本郷三丁目」より徒歩10分 ◎東京メトロ南北線「東大前」より徒歩15分
参加料
有料
参加料  資料代含む1000円
申 込
不要
問い合わせ先
シンポジウム本部事務局名古屋     東京(03-6811-5517)
TEL:052-735-1706

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November 20 2011

November 19 2011

ウォールストリート占拠と中国経済の破綻?

前回のエントリーで報告した通り、2011年9月の中旬に、ニューヨークからアジアの金融センター香港に移りました。9月と10月は引越しで忙しく、ブログ更新が滞ってしまいましたが、その間にも世界は大きく動いていました。 特に気になったのは、日々トップニュースになっている欧州の財政問題ではなく、ニューヨークから発生して世界中に広がった「Occupy Wall Street(ウォールストリートを占拠せ・・・

November 18 2011

スルタンに仕えたアリストテレス主義者

 Monfasaniの新作を手に入れました。15世紀のビザンツ哲学の者の著作(というか集められた草稿)の校訂です。まずはイントロダクションを読みました(5–53頁)。

 教皇エウゲニウス4世がトルコの脅威に対抗するために東西教会の合同を目指し、1438年から39年にかけてフェラーラとフィレンツェで会議をひられたことはよく知られています。さらに哲学史に関心があれば、この際にビザンツ側から派遣された人々のなかにプレトン(ゲルギオス・ゲミストス)がいた事を知っているかもしれません。さらにこのあたりの事情に詳しければ同じ使者のなかにゲルギオススコラリオスがいたことも知っているでしょう。しかし使者団にもう一人のゲルギオスであるGeorge Amiroutzes(アモイルーゼース)が含まれていたことを知っている人はほどんどいないのではないでしょうか。かくいう私もこの本を読むまではそのような人間がいることすら知りませんでした。しかしこの人物はブルーニがその学識に心打たれて著作を検定してしまうほどの名声を当時勝ちえていました。

 Amiroutzesは1400年頃に生まれ1460年頃に没したと考えられています。トレビゾンドで生まれた彼はイタリアでの会議に出席したあと1450年頃には(ビザンツを滅ぼした)メフメト2世に仕え、哲学的・神学的問題についての議論相手となりました。Amiroutzesをイスラム教に改宗したとして非難する年代記もあるものの、実際には改宗の事実はありません(二人の息子は改宗したようです)。15世紀の前半にコンスタンティノープルで教育を受けました。教師はJohn ChortasmenosやThierry Ganchouではなかったかと推測されていますが確かなことはわかりません。

 彼の著作『信仰について』はルネサンス期にラテン語に訳されて2回出版されています。これはメフメト二世にたいして受肉や三位一体といったキリスト教の教義が非合理なものでないことを示そうとした作品です。Monfasaniは失われていたと思われていたこの著作のギリシア語版がトレドの図書館の写本に収められていることに気がつきました。このギリシア語本文とその英語訳は近いうちに彼の手によって刊行される予定だそうです。本書に収められているのはその同じ写本に収められた一群の草稿です。これは明らかに完成された著作ではなくて、Amiroutzesの講義ノートやメモが何者か(息子?)によって編集されて15の論考の体裁をとるに至ったものです。

 この中でAmiroutzesはアリストテレス主義の立場からプラトン主義を攻撃しています。プラトン主義によれば世界は一者である神から必然によって流出したことになっている。しかし世界は神の意志によって成立したとみなさなければならない。また新プラトン主義者が考えるように神と被造物のあいだに複数の原理(知性の階層)を想定してはならない。プラトンの輪廻転生理論は不合理である、などなど。このような論駁の背後にはプレトンのプラトン主義に対抗するという動機があったものと思われます。またギリシア語訳されていたトマス・アクィナスの著作を直接的にか間接的にか用いているのも興味深いところです。Amiroutzesによる神の存在証明の特徴、実体形相の単一性の強調、さらには著作における議論の進め方には明瞭にアクィナスから採られたとおぼしき要素が認められます。またアヴィセンナの流出論に非常に近い議論をAmiroutzesは紹介しており、これもアクィナスを経由して彼の知るところになったのではないかと推測されています。

代々木の街が変わる!? 本日、代々木VILLAGEオープン!

代々木といえば、原宿の新宿の間にありながら、案外用事がないと降りない駅だったりして……。しかし、今日からは何度と通うことになりそう。というのも、ミスチルやSalyuなど、様々なアーティストを手がける音...

November 16 2011

ベストセラー作家、「街の書店」経営に乗り出す

今日のニューヨーク・タイムズに、「流れに抗うべく小説家が書店をオープン」というタイトルの記事があったので、誰のことかと読んでみると、なんと現代アメリカ作家のなかで私がもっとも好きな小説家のひとりのAnn Patchettでした。アマゾンなどのオンライン書店や、Barnes & Nobleといったチェーン店、そして電子書籍の興隆に押されて、独立系のいわゆる「街の書店」がどんどん消え去っていくのはアメリカ全国でみられている現象。Ann Patchettの住んでいるテネシー州ナッシュビルもその例にもれず、最後の砦として頑張っていた独立系の書店が閉店を決めると、郊外にあるBarnes & Nobleとヴァンダービルト大学の書店(他の多くの大学でもそうですが、この大学書店も経営はBarnes & Noble)を除いては、古本屋や宗教などの専門書店以外には「街の本屋」がなくなってしまうという状況に。「私は商売にも興味がないし、本屋をオープンすることにも興味がないけれど、本屋がない街に住むことにもまったく興味がない」と言って、書店オープンのための企画を練ること半年。自分の小説のサイン会のために全国の書店をまわりながら、訪れる各店でリサーチを重ね、大手の書籍卸売業や出版社で経歴を積んでいる出版業のプロとパートナーシップを組み、私財もかなり投入して、開店にこぎつけるとのこと。書店業は先行き真っ暗かのようなニュースばかり入ってきますが、この記事によると、厳選された書籍を並べ本を知り尽くしているスタッフが個人的なサービスを提供してくれる小規模の独立系書店が、オンライン化の流れに逆らって成功している例は、いろいろなところで見られるそうですが、果たしてそのひとつとなれるのか。街にいい書店があるということは、コミュニティの文化にとってとても大事なことなので、ぜひとも頑張ってほしいです。でも、Ann Patchettのファンとしては、書店経営が忙しくて、執筆が滞ってしまうんじゃないかと、そちらもちょっと心配。


Ann Patchettは数多くの作品がありますが、日本語に訳されているのは『ベル・カント』だけのよう。もっと訳されていい作家だと思います。この『ベル・カント』は、ペルー日本大使館公邸占拠事件にヒントを得て、また作者の友人であるというオペラ歌手Renee Flemingをモデルにして(との噂ですが、本当かどうかは知りません)書かれた、とてもドラマチックで美しい小説。とくに最後の部分が素晴らしい。私はこの作品を読んですっかりAnn Patchettのファンになり、以来彼女の作品はすべて読んでいます。『ベル・カント』はオペラ化されるという話で、サンタフェ・オペラが某作曲家に作品を委嘱したという噂を何年も前に聞いて以来、実際にオペラが上演されるという話はさっぱり聞かないので、いったいどうなったのか知りませんが、私はこのオペラができたら(やはりRenee Flemingが主演するのでしょう)サンタフェでもどこでも飛んで行って観ようと思っています。


他にも数々の作品がありますが、『ベル・カント』と並んで私が好きなのが、『Truth & Beauty: A Friendship』。これは小説ではなく、彼女の親友であったLucy Grealyとの濃厚で複雑で美しい友情について振り返ったノンフィクション。ともにIowa Writers' Workshop(水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の最初の部分に、世界各地の作家を招聘するアイオワの国際プログラムについてのとても面白い文章がありますが、これは同じアイオワ大学で作家を育成するための大学院レベルのプログラム)で修行を積んで以来、執筆の苦楽そして私生活でのさまざまな局面をともに経験しながら、それぞれの段階で友情が形を変えていく様子を振り返ったもの。Lucy Grealyは、たいへんな才能の持ち主であったと同時に、病気そして薬物依存に苦しみ事故破壊的な行動に走る人物でもあり、彼女の友人でいるのは喜びと苦しみの入り交じった難しいものであったことが明らか。そのなかで、見放すでもなく甘やかすでもなく、人間として相手と真摯に向き合い、友として相手の人生を見守った回想。ひたすら強く美しく苦しく、心うたれます。とりわけ私が気に入っている一節があり、それをここで引用しようと思って本棚を探したのですが、なぜか見つからない。大学の研究室のほうに置いてあるのかと思うので、後で見つかったら追記します。英語の文章は雄弁で美しくそんなに難しくないので、日本の読者にもぜひ読んでいただきたいです。

インデックス投資はなぜ良い投資成果を残せないか?

最初にハッキリさせておきたいのですが、僕はインデックス投資のファンです。

伝統的なロング・オンリー(=買いから入る投資手法)のアクティブ運用をするくらいならパッシブ運用(=インデックス投資)の方が遥かに良いと考えています。

だからここで書く事はインデックス投資をdisることが目的ではありません。

それを断った上で(それにしても僕はインデックス運用のルールを全て守って手堅く投資しているのに、なぜか儲からないよねぇ)と唇を噛んでいる投資家はすごく多いと思うのです。

この素朴な疑問、ないしは実際に読者が日頃抱いている率直なキモチに関し若干の解説を加えようというのがこのエントリーの目的です。

ロング・オンリーの運用は、よく「敗者のゲーム」だと言われます。

「敗者のゲーム」とはアマチュアのテニスの試合のように「より沢山ミスを犯した選手が負ける」という考え方です。

ロング・オンリー投資の場面でのミスとは具体的に:

1.無駄な売買を繰り返し、手数料コストばかりかかる
2.そもそもフィーの割高な金融商品に手を出す
3.相場のタイミングを誤り、怖くなって安値で売ってしまう

などを指します。

インデックス投資を長期に渡って実行すると、これらのミスを軽減することが出来ることはすでに広く受け入れられている定説となっています。

インデックス投資の「インデックス」とは日経平均やS&P500のような株価指数を指します。

乱暴な言い方をすれば「マーケットをまるごと買うやり方」と言い換えても良いでしょう。これを難しい言葉ではベータ(β=市場の動きで説明できる利益)と言います。

インデックスの長期投資では、相場が良い時も、悪い時も、淡々と継続することが大切だと教えられます。そうしなければマーケット・タイミングのリスクを軽減できないからです。

しかしインデックス投資の弱点は「マーケットは長期では右肩上がりである」ことを前提にしている点です。

もちろん、マーケットは長期では右肩上がりだろうことは僕も大筋では同意します。しかし、チャールズ・エリスやジョン・ボーグルなどがインデックス投資を提唱した時代はマーケットにとってとりわけ幸福な時代だったことを忘れてはならないと思います。

下のグラフは米国、日本、ドイツの10年単位でのGDP成長率の推移を示したものです。
a

乱暴に言えば株式市場の超長期でのパフォーマンスは経済の発展に「或る程度」連動します。
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November 15 2011

イングランドの戦争神経症

  • 高林陽展「第一次世界大戦期イングランドにおける戦争神経症:近代社会における社会的排除/包摂のポリティクス」『西洋史学』238号、2010年、217–236頁。

 大規模な戦争の経験が社会での精神病の立ち位置を変質させたことを論じる論文です。大戦当時のイングランドでは精神病患者の入院には治安判事の許可が必要だとされていました。これに対して精神科医たちはこのような規定は入院を刑事的事象であると人々に認識させ、精神病に罹患することを汚辱とみなす観念を助長し、結果として人々に病院へかかることを忌避させて症状をいたずらに悪化させることになると批判していました。すでに別の論文で高林さんが論じているように、医師たちのこのような主張の背後には、入院措置や病院の新規設立に関する厳しい規定を除去して、自らの社会経済的上昇回路を確保しようという願望がありました。

 このような状況下で大戦により兵士たちのなかに大量の戦争神経症患者が出現します。彼らの一部分は精神病院に入院することになります。この時、上記のような規定によっても強化されていた精神疾患とそれにともなう入院措置への否定的感情がさまざまな方面から噴出します。議会の議員たちは兵士たちを精神病院という社会的汚名と結びつく場所で治療することは相応しくないという抗議を行いました。精神科医たちは治療に法的証明書を必要とする規定が精神病への否定的見解を醸成し、早期治療を妨げ、結果として戦争神経症の治療を困難にしているとして、上記の規定を変更するよう求める運動をはじめます。一方で、大量の戦争神経症患者を社会的汚名と結びついていた精神病ではなく、神経症として治療することが求められ、従来精神科医たちが独占していた医療市場に神経科医たちが参入してくることになりました。

 これら一連の動きはさまざまな集団が自己の利害関心に照らしあわせて、戦争神経症患者の大量出現に対処しようとした結果として生じたものでした。これらの運動をより俯瞰的な視点から考察するならば、精神病を社会的汚辱を与える疾患とみなし、その患者を精神病院へ入院させ隔離するという方策が、大戦により国家の男性人口の多くが戦争神経症に罹患するという事態の出現によって行き詰まったことを意味します。

戦争神経症の多発とは歴史上類を見ない規模で起こった精神疾患の一般化であり、それにより、近代社会は精神疾患への対処方法への変更を迫られていった。精神疾患を完全なる社会のアウトキャストとすることが、戦争神経症の多発で限界を露呈したのである。これ以後の精神疾患の社会的コードは、社会的排除ではなく、誰にでも起こりうることとして包摂へと徐々に向かうことになる。

 国家のために戦ったという名誉を与えられるべき兵士たちが、社会的汚辱と結びついた精神疾患に罹患することが、精神病の社会的コードを変質させていくという着眼点がすばらしい。

参考

November 14 2011

理系天国のアメリカ 米国教育界が力を入れ始めているSTEM(サイエンス、テクノロジー、エンジニアリング、数学)とは

しばらく前の記事で米国の大学での専攻と年収との関係について紹介しました。

その中でエンジニアリング系のお給料が高いことに多くの読者から驚嘆の声が上がりました。

「日本とちょっと勝手が違うな」

そういう感想が多かったです。

ただコメント欄でのやり取りにも出てきますが、この調査はあくまでも学部レベルだと思うので、院卒になるとまた別だと思うのです。

法律の分野ではロースクールに行かないと意味が無いし、金融系はMBAを取得してはじめてキャリアの道が開けるのが実情だと思います。

米国の私学の学費がバカ高いことも指摘しましたけど、その上、ロースクールやMBAということになると親としてはお金が幾らあっても足らない状態になるわけです。

ちょっと話が脱線しますけど、ロースクールに行けば生涯安泰かと言えば、それは違います。

サブプライム・バブルが弾けた時、有名な大手法律事務所がその年の新規採用を大幅に削減しました。これはデリバティブのドキュメンテーションなどの、金融サービスに関係するリーガル・サービスが大手法律事務所のドル箱のビジネスになっていたことが少なからず影響しています。

資産担保証券の発行市場の機能不全で法律事務所も大打撃を受けたのです。
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ロースクールで学ぶ学生はとりわけ高授業料に苦しんでいるので、卒業後、すぐに働き始めて借金を超スピードで返してゆかねばなりません。

ところがどの大手法律事務所も次々に「今年は新卒を取りません」と宣言したので、彼らは大慌てしました。ロースクールを卒業後、直行便で個人破産する人も続出したわけです。

同様の極限的な事情は大きなローンを抱えてMBAを取得した学生にも当てはまると思います。

これは或る意味、「高等教育のカジノ化」であるといえなくもありません。

アメリカの大学教育を受けるコストが高いという話を続ければ、「それでもアメリカにはいろいろな奨学金制度がある」という事を指摘する人が居ます。

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VERSACE for H&M.....my wish list.....★










VERSACE for H&M

My wish list.........星



Natsuが一足お先にチェックしてきたアイテムたちです
ほっっんと可愛い(。>0<。)!!
ヴェルサーチを前にしたらもう
ひれ伏すしかありません。。。


ライダースと~
黒のシンプルなサテンドレスと~
黒ミニバッグ~
ほしいな~~ハートハート


買えるかな.....o(TωT )





November 13 2011

November 12 2011

Thinking, Fast and Slow

Thinking, Fast and Slow本書は著者がノーベル賞講演で示した枠組を一般向けに敷衍し、行動経済学をデカルト以来の「意識中心主義」を否定する知的な革命として位置づけるもので、社会科学を学ぶ者すべての読むべき21世紀の古典となるだろう。ナシーム・タレブは、本書に最大級の賛辞をささげている。
“This is a landmark book in social thought, in the same league as The Wealth of Nations by Adam Smith and The Interpretation of Dreams by Sigmund Freud”
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ライプニッツと生命の科学 スミス『神的機械』序章

Divine Machines: Leibniz and the Sciences of Life

Divine Machines: Leibniz and the Sciences of Life

 昨日に引き続きスミスの『神的機械』を読み進めました。今日は序文です(1–21頁)。伝統的な科学の発展についての記述は、17世紀にまず物理学で大きな変化が起こり、続いて18世紀に化学の分野で変化が起こり、そして最後に19世紀半ばのダーヴィンによって生物学に巨大な変動がもたらされたとしてきました。この図式では17世紀の生命科学という問題が注目されてこなかったことも頷けます。

 しかし17世紀に機械論哲学が起こったときにこそ、生命と非生命の境界線引きの問題が重要な課題となって浮上しました。たとえば人間の霊魂を除くすべてを物質の運動と衝突だけから説明しようとするデカルトにとって、生命現象の説明は最大の難問でした。実際デカルトが苦心して定式化した目的の概念を用いない動物発生理論は多くの人にとってあまりに思弁的で経験的根拠がない学説だと当時みなされました。これに対して別の一群の人々はデカルトとは反対方向に進み、世界の全領域を生命現象としてとらえようとします。ライプニッツはこのような人々のひとりでした。

 ライプニッツは世界というのはそのどの部分をとっても生命という魚が泳ぐ池のようなものだと考えていました。世界のどこを切り取っても、そこには無限に包みこみ合う有機体が見出されるというのです。この有機体の理論は彼の中期思想に顕著に見られるとされます。しかし後期の彼は、この微小な有機体は認識と欲求を備えた単純実体、つまりモナドにその存在の根拠を持つと主張します。ここからライプニッツの哲学を身体を備えた有機体をその基礎にすえたものと考えるか、それともモナドを中心にすえたものと考えるかという論争が生まれます。これに対して著者は、有機体がモナドによって説明できるということは、有機体がモナドへと還元されてしまうことを意味しないと主張します。むしろライプニッツはアリストテレスと同じく生命現象をモデルにして自然(そして自然を支える神の知恵)を説明しようとしており、その核となる有機体の理論をモナドは支えているのだということになります。

 このような観点にたってライプニッツの有機体の哲学に着目することでいくつかの洞察を引き出すことができると著者はします。第一にライプニッツは最初、個々の動物が全体としてどうして統一的な機能を果たすかということに注目していたが、徐々に微小な有機体の集合がどうして目に見える構造体を作り出すかということに興味の焦点を移していったということがわかります。第二に彼の理論は実験・観察によって得られた同時代の知見に大きく規定されていたことが明らかとなります。最後にライプニッツを形而上学者としてではなく生命について探求していた哲学者とみなしていた18世紀フランスの人々から、われわれは多くのことを学ぶことができるであろうとされます。

November 09 2011

[映画]オキュパイ運動はどういう表象に頼っているか?〜ゾンビ、反逆者、魔法使い

 昨日の学生デモに参加して思ったのだが、オキュパイ運動はいろいろな文化をバックボーンとしていて、参加者は自分がふさわしいと思った文化表象に託して政治的主張を広めようとしている。そんなわけで今日はオキュパイ運動(及びそれに先だって行われていた反格差運動)の依拠する表象は何なのかについてちょっと記述してみたいのだが、うちがあまり得意じゃない分野のものも多いので分析はなしで記述だけになっちゃうかも。それにサンプルが昨日のデモと新聞記事だけなのでかなり偏ってる。

 とりあえずオキュパイ運動を記述する前に押さえておくべきこととしては、ある政治的主張がメディアを通して広まる時、単純に主張をどういうふうに言語化しているか、というだけじゃなく一体その運動はどういう文化をバックボーンにしていて、言葉以外のどういう表現を通してそのメッセージを伝えようとしているのか、どういう文化と自分を結びつけたいのか、というのが重要になるということがある。西洋絵画で神やら聖人やらの権威を王族・貴族が借りようとしていたなんていうのはよく言われることだが、少し新しい例だと例えばポーランド人民共和国で1989年に行われた初めての自由選挙(部分的実施だったらしいが)で「連帯」が使用したポスター(こちら)とかがあげられる。これは1952年のアメリカ映画『真昼の決闘』ポーランド版のポスターのパロディで、保安官ゲーリー・クーパーに連帯のロゴをかぶせたものであった。このポスターの一筋縄ではいかない経緯についてはワレサ議長のインタビュー抜粋が英語版ウィキペディアにのっているが、これは一人になっても正義と自由のため戦う西部の保安官ゲーリー・クーパーにポーランドに到来するべき民主主義のイメージを重ねたものである一方、おそらくはポーランド人が西部劇のカウボーイに対して一般的に良いイメージを抱いていたことを利用している(ポーランド史については詳しくないのでよくわからないが、ワレサのインタビューを読むとどうやらそうらしい)。ネガティブなイメージを反対者にかぶせるというのも行われていて、思いつくとこだと1983年にレーガン政権が提示した「戦略防衛構想」が「スター・ウォーズ計画」(スペースオペラなみに壮大で滑稽だという含みがある)として論敵から攻撃されたこととかかな。

 

 そんなわけでオキュパイ運動の参加者たちも自分の政治的主張を表現するのにふさわしいと思った表象を選び、それをまとって政治の場に出て来ている。うちが昨日のデモと今までの新聞記事で観察したところ、目だった表象は3つくらいだと思う。


(1)ゾンビ

 昨日は見かけなかったが、ゾンビの格好でプロテストする人はかなりいるらしい。

Occupy Wall Street ‘zombies’ keep protest alive

“Zombies” Occupy Wall Street

 オキュパイ運動に限らず、最近の世相はゾンビなしでは回らない。去年のイギリスの選挙の時には政治諷刺をかねたゾンビの権利保護協会が活動してた。

f:id:saebou:20091120170012j:image

 あと、今年の夏のロンドン暴動で、人っ子ひとりいなくなったプチ戒厳令下のロンドンを「『28日後』みたいだ…」「ゾンビの襲撃みたいだ」と喩える人がかなりいたし、私も実際そう思った。

 で、これについてはブライトンに3000人のゾンビが出現した時(これはオキュパイ運動とは関係なかったようだが)にBBCが書いた記事(こちら)が結構面白い分析を提供している。ニック・ピアースという研究者が、今の若い世代には職もなく将来への希望がないため、「生きる死者」(living dead)であるゾンビと自分たちを重ね合わせやすいんだろうというようなことを言っている。つまりゾンビとしてプロテストする若者たちは自分たちがゾンビにされたと思ってるということだろう。


(2)ガイ・フォークス(『V・フォー・ヴェンデッタ』)

 ガイ・フォークスは1605年にイングランド議会を爆破しようとして失敗したカトリックの反体制派で、今でもイングランドでは11/5に謀反人ガイ・フォークスの陰謀失敗を祝うガイ・フォークス・ナイトというアングリカンの火祭りがある。

 ところがこのガイ・フォークスには圧政に抵抗する反体制活動家という側面があり、『V・フォー・ヴェンデッタ』というウォシャウスキー兄弟の映画ではガイ・フォークスのマスクが反体制の象徴となっている。

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 で、昨日撮った写真にもうつっていたが、この映画に出て来たガイ・フォークスのマスクはオキュパイ運動参加者に大人気である。それ以前からいろいろこれを反体制派がつけることはあったらしいが、オキュパイ運動でかなりメジャーになった。

f:id:saebou:20111110125604j:image

Guy Fawkes mask inspires Occupy protests around the world

Occupy's V for Vendetta protest mask is a symbol of festive citizenship

 原作のコミックを読んでないのでこのあたりはあまり詳しく述べる資格がないのだが、とりあえずこの映画を見てた人がこんなにいるんだということに私は驚いたな…『マトリックス』三部作のほうがポピュラーカルチャーへの影響度は上だと思っていたのだが、あれはやたらポストモダン的(というかプレモダン的?)で現実に社会変革を訴える時は全く素材にならないんだと思うんだけど、一方、『V・フォー・ヴェンデッタ』は革命を賛美する話なので非常に参照しやすい。あれのラストシーンは無名の人々が呼びかけに応じてマスクをつけてやってくるみたいな感じで、自分たちは力を奪われた多数派(99%)なのだ、と主張しているオキュパイ運動には非常にしっくりくる物語である。『V・フォー・ヴェンデッタ』は『マトリックス』よりは出来が悪い気がしたのだが、実は意外に『マトリックス』より先を見通した映画だったのかな…見てない人は今すぐ見たほうがいいかもしれん気がする。


(3)ハリー・ポッター

 これについての報道はあまり見かけないしひょっとしたらロンドンだけの局地的な現象かもしれないと思うのだが、ロンドンではハリー・ポッターの格好でプロテストした人がいたらしい。あと、去年の学生デモでも昨日のデモでもこの「ダンブルドアならどうする」プラカードを見かけた。

f:id:saebou:20111110125548j:image

 ソースがウェブだけなので確かなことは言えないのだが、この文句はどうやら同性婚のプロテストでよく使用されていたものの変形らしい(ダンブルドア先生はゲイなので)。LGBT関係の人権運動をやってる人とオキュパイ運動の参加者がある程度かぶっているということなのか、それともハリー・ポッターオタクはどこにでもいるってことなのかな…

 しかしながらよく考えると『ハリー・ポッター』って政府の横暴で政治的にリベラルな学長が退任させられそうになり、学校自治を求めて学生が運動する(その背後には巨悪の存在が…)っていう話なので、意外と政治的な話である気がする。Harry Potter Allianceとかいうファンの人権団体(よくわからないのだが、ネオペイガン系かね?)まであるらしい。そう考えると、オキュパイ運動でもとくに学生デモみたいな「学問の自由」を訴える運動には利用しやすい。大ヒット作でみんな見てるし。


 こうして並べてみるとどうやらオキュパイ運動やそれに類する反格差運動の参加者はゾンビやウォシャウスキー兄弟(あるいはアラン・ムーア?)やハリー・ポッターが好きで、こういうものが表現している価値観が自分たちの政治主張にふさわしいと考えているらしい。しかしながら昨日のデモで面白いなと思ったのは、Socialist Workerとか明確な政治団体の看板を持ってる人たちはこういうポピュラーカルチャーをまとって来ない傾向があることである。ポピュラーカルチャーを着て運動にやってくる人たちはどっちかというとそういうところで組織化されてないナードが多いんじゃないかって気がする(ガイ・フォークスのマスクが広まる一員となったアノニマスとかってこういう組織化されてないナードだよね?)。まあ気がするだけなので詳しいことは言えないのだが、ポピュラーカルチャーの利用には「自分はポピュラーカルチャーを利用する側の人間である=99%なんだ」という主張が隠れているはず…だよね。自分たちが99%だ、と主張するにあたってはポピュラーカルチャーの利用自体が明確な政治主張になりうる(個人的には自分たちは99%だとかいう多数派アピールは好きじゃないが、言わんとしていることは理解できないわけではない)。

 この他にもきっとプロテストで参照されているポピュラーカルチャーはあるはずなので、他にどういうものがあるのか興味ある。スター・ウォーズのファンはいないのかな?アメリカではどうなんだろう?

Tags: 映画

November 06 2011

図書館いろいろ

昨日のニューヨーク・タイムズに、かつて極東編集局長であったコラムニスト、ニコラス・クリストフが、元マイクロソフトでマーケティング部長を務めていたジョン・ウッドが始めた2000年に始めたRoom to Readというチャリティについての論説を載せています。ネパールで始まったこのチャリティは、世界各地の子供たちが本を読めるように、図書館を開設したり学校に本を送ったりするというプロジェクトで、これまでに世界で一万二千の図書館を開設し、一日につき六の図書館がオープンしているという驚異的な成果をあげているそうです。


たいへん結構なプロジェクトで、現代アメリカの図書館システムの基盤を作ったアンドリュー・カーネギーを思わせますが、私としては、これらの図書館にいったいどんな本が入っているのかについてもっと知りたいところ。こうしたチャリティの対象となる地域では、図書館以前にそもそも本自体がないところが多いため、Room to Readでは自費出版で子供たちのための本を出版もしており、クメール語やネパール語などさまざまな言語で591の本を刊行してきた、と書いてありますが、アメリカのフィランソロピーによってこれらの言語の出版文化が形作られることは、なにを意味しているのか、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の議論と照らし合わせて考えてみたいところ。また、私の元大学院生が、ベトナムとアメリカの国交正常化前後にアメリカ人(その多くはベトナム戦争を経験した元兵士)がベトナムで展開してきたさまざまな人道的チャリティ・プロジェクトの力学についての博士論文を書いたのですが(これは本当に指導のしがいがあったと思わせる素晴らしい博士論文に仕上がり、こういう学生が育つと教師をしていてよかったと心から思います)、Room to Readを彼女に分析させたら興味深いものが出てきそうな予感。


図書館ネタでもう一点、最新のニューヨーカーに、文芸評論家のジェームズ・ウッドによるShelf Lifeというエッセイ(残念ながらこれはお金を払った購読者でないと全文は読めないよ設定になっています)があります。著者の亡くなった義父が集めた莫大な数の本の処理について途方に暮れながら、人が本を買い集めるという行為の知的・情感的・物理的な意味を振り返っているエッセイなのですが、この文章がたいへん素晴らしい。フランス国籍でアルジェリアで育ちフルブライト奨学生として渡米して中東研究に従事したものの学問の道には進まずカナダに移住してビジネスマンとして生きた義父は、人柄的には親しみを感じさせる人物ではなく、存命中は著者は義父のことをコワいと思っていたけれど、死後彼の書庫に積み上げられた本を通じて彼の頭や心のなかに思いを馳せ、人にとっての本の意味を考える、というもの。著名な知識人でなくとも、この義父のようになんらかの体系にそって本を集めた人のコレクションは、全体があってこそ意味があるのであって、一冊一冊の本自体にはほとんど価値がない。けれど、今どき単なる個人の関心にそって集められた大量の古本をありがたく引き受けてくれるような図書館も古書店もめったにない。コレクションとしての価値を失い、所有者との関係が切り離されてしまえば、本というのは単なる重くやたらと場所をとる物品でしかなく、他のありとあらゆる遺品となんら変わらず、大量の本を残された家族も途方に暮れるばかり。そうは言うものの、本にはそれを読んで大切にとっていた所有者のいろいろな思いがこもっているし、その人の知的道程の地図でもあるしで、そう無下に扱うのも心が痛む。義父の本のコレクションを見ながら、生まれ育った故郷を遠く離れて人生の大半を過ごした義父の人生を振り返る、こんな文章が絶妙。


The acquisition of a book signaled not just the potential acquisition of knowledge but also something like the property rights to a piece of ground: the knowledge became a visitable place. His immediate surroundings, American or Canadian, were of no great interest to him; I never heard him speak with any excitement about Manhattan, for instance. But the Alhambra in 1492, or the Salonica he remembered from childhood (the great prewar center of Sephardic Jewry, where, he recalled, there were newspapers printed in Hebrew characters), or the Constantinople of the late Byzantine Empire, were . . . what? If I say they were "alive" for him (the usual cliche), then I make him sound more scholarly, and perhaps more imaginative, than he was. It would be closer to the truth to say that such places were facts for him, in a way that Manhattan and Toronto (and even Paris) were not.
     And yet these facts were largely incommunicable. He spent his time among businessman, not scholars. He rarely invited people to dinner, and could be emphatic and monologic. He tend to flourish his facts as querulous challenges rather than as invitations to conversation, though this wasn't perhaps his real intention. So there always seemed to be a quality of self-defense about the greedy rate at which he acquired books, as if he were putting on layers of clothing to protect against the drafts of exile.


しつこく水村美苗さんを引き合いに出しますが、『私小説―from left to right』『本格小説』に描かれている、十二歳で渡米し英語の日常のなかで生活しながら近代日本文学全集をひたすら読みあさることで自分の精神世界を築いていった水村さんを思い出させる文章でもあります。


私も職業柄、本がどんどん増えるいっぽうで、この先どうなるんだろうと思うことがよくあります。数年に一度は、もう必要ないことが確実で特に思い入れのない本を段ボールに十箱ほどずつ処分するのですが、それでも書棚スペースはほとんどなし。今はまだ、研究室と自宅を合わせてなんとかなっているものの、数年後にはなんとかならなくなるのが確実。うーむ、どうしよう。そのいっぽうで、私が子供時代に何十回と読み返した『あしながおじさん』と『若草物語』を実家から持ってこようと探したのにどうしても見つからなかったときの落胆(そういう本というのは、その箱や表紙や挿絵にも思い出が詰まっているので、新しくその本を買えばいいというものではない)を考えると、自分にとって大事な本はやはり大事にとっておかないととも思うし. . .

なぜ霊魂は自分の家をつくる建築家なのか

 博士論文第6章の結論をざっと書いてみました。英語にする段階でいろいろ手を加えなければならないのはともかくとして、基本的にはこの筋でまとめようと考えています。どうでしょうか?

結論

 ライプニッツが正しく見抜いていたように、スカリゲルの発生論は、霊魂がやがて自身が支配することになる身体を構築するという前提に基づいていた。自然発生の場合、天(とりわけ太陽)から与えられた霊魂が腐敗物のなかでネズミやカエルといった下等生物の身体を形成する。他方で多くの動植物は種子を生み出すことによって生まれる。このタイプの発生は種子の中の霊魂を必要とする。この霊魂は親の霊魂が自己増殖したことによって生まれたもので、適切なマトリクスに入ると身体の形成を開始する。一般的な規則への例外が見られるのは人間の発生のケースである。人間の理性的霊魂は最初種子(精液)に宿っていない。それが神によって創造され人間に与えられるのは、身体が別の霊魂によって形成されたあとのことである。残念ながら、スカリゲルはこの先行して身体を構築する霊魂の本性を明確にすることはしなかった。これら三種類の発生のすべてが霊魂を身体形成の執行者(executor)として必要とする。スカリゲルは霊魂はこの仕事をある種の力を行使して行うと考え、それをplastic facultyと呼んだ。この力はそれ自体は非理性的でありながら身体の形成という高度な仕事(operation)を達成する。それは神が霊魂を創造したさいに、それらにこのような仕事を可能とするような指示(あるいは一種のプログラム)を与えたからである。

 スカリゲルの理論は、霊魂とは別の形成的力を想定する伝統的理論と対立するものであった。この点で彼の理論はフェルネルの理論と共通の新規性を有していた。しかし二者の見解もまた別の側面では相容れないものだった。スカリゲルは形相の起源を天に求めるフェルネルの学説を、すべての発生を自然発生とみなす不合理な帰結を招くものと批判した。

 スカリゲルによる新しい発生論の定式化の背後には何があったのか。動機の一つは霊魂の不死性を証明することだった。1513年に第5回ラテラノ公会議は、すべての哲学者は個別的人間霊魂の不死性を証明しなければならないと宣言した。この決定の直後に、ピエトロ・ポンポナッツィが『霊魂の不死性について』を完成させ、そこで理性的議論によっては人間霊魂の不死性は証明できないと主張し、それにより同時代の知識人たちからの多くの反論を呼び起こした。スカリゲルが霊魂を四元素に還元する学説に反論する際の強い調子には、当時のアリストテレス哲学者に働いていた強いプレッシャーが反映されている。彼の物質主義的な霊魂論への反駁は非常に強く、そのため彼は別の極端な立場へと到達した:すなわち、あらゆる形相は四元素に還元できず、それゆえ不死である。この主張の帰結として、元素にも形相にも由来しない活動というのは少なくとも理論的には存在しないことになった。したがって形成力もまた霊魂の能力の一つとして分類されることになる。

 個々の形相に還元されない活動を否定するということは、世界中で質料に浸透している共通の能動原理の存在を否定することを意味した。すでに述べてきたようにカルダーノはこのような原理が存在すると考えていた。彼の世界霊魂論を論駁したのと同じ演習に発生に関する議論をスカリゲルが置いたことは、発生の議論もまたカルダーノ流の普遍的力の理論へのアンチテーゼとして彼が構想していたことを意味する。しかしここではこの種の学説がカルダーノにとどまらず古代以来長きに渡って発生の問題に適用されてきたことを思い起こさねばならない。すでにガレノスは『各部位の用途について』でデミウルゴスが天に与えた知性が地上に広がることで身体の形成が可能となると考えていた。アヴェロエスは天からの霊魂的熱を形成力(informative power)と呼び、これが身体の形成には必須だと考えた。この見解を正当化するため彼はアリストテレスの『動物発生論』中にある、天体の元素と類比的な熱について語ったパッセージを参照していた。このような伝統的理論からの離反は、スカリゲルが『動物発生論』の同じ箇所をどのように解釈したかに反映されている。彼によれば、そこは発生の過程が天に由来する力を必要としていることを意味するのではなく、霊魂が四元素には還元できない第五元素であることを意味していた。こうして彼は霊魂とは区別される能動原理が発生において主要な役割を果たすという見解をアリストテレスから切り離した。今や発生は個別的霊魂によって担われるものとなり、普遍的力は排除された。

 これら二つのスキームの対立は17世紀にいたるまで発生の理論を規定し続けた。スカリゲルは霊魂を有する種子はすでに動物(animate being)であると断言した。この見解は種子にすでに器官の萌芽があるとみなす前成説への道を開くことになる。一方これとは対立するスキームも大きな影響力を保持し続けた。このことをよく示すのがウィリアム・ハーヴィの事例である。彼は種子には霊魂は宿っていないと主張しスカリゲルとフェルネルを批判した。彼によれば種子はいかなる意味でも器官を備えていない同質的(homogeneous)な物体である。これに形成力が働きかけることで器官が形成され、その時点ではじめて霊魂が宿ることになる。この議論により彼はみずからの後成説を正当化しようとしていた。

 しかしこの対立の重要性は発生論の領域を超える射程を有していた。スカリゲルの『演習』の約20年後に出版された著作の中で、ヤコブ・シェキウスはplastic facultyを霊魂とは独立の力とみなし、それは世界にあまねく浸透していると考えた。シェキウスによって定式化されたこの概念は(おそらくはゼンネルトによる批判を通じて)、ヘンリー・モアとラルフ・カドワースというケンブリッジプラトン主義者たちの哲学の核を形成することとなった。彼らにとってplastic facultyというのはいわば神の道具として世界全体の秩序を保証する役割を担っていた。スカリゲルも同じようにplastic facultyが神の指令を受けて身体の形成という秩序形成を行うと考えた。しかし彼の考える世界への神の関与というのは、原初の創造の時点でその後の秩序を生み出す一種のプログラムのようなものを個々の形相に与えるというものであった。これは神の命令のもとで働く能動原理は、(カドワースらが想定したような)diffusiveな性質は持たず、むしろ諸々の形相によって厳密な形で個別化されているということを意味した。すでに見たように、スカリゲルはこの考えをすでにアリストテレスが『形而上学』で提唱していたものと解釈していたし、またのちに見るように「創世記」の記述に合致するものだとみなしていた。つまるところ、スカリゲルの考える世界というのは形相の活動の総体であり、その形相とは神に由来する能動原理をself-containedな形で保持するものであった。「霊魂は自分の家を建てる建築家である」というスカリゲルの言明は、この世界観の一部をなすものと理解されなければならない。来るべき17世紀には、個別化された能動原理という考え方は原子論と親和的なものと解釈されるようになる。しかしこの点を理解するためには彼の自然哲学の別の領域を見なければならない。それが次章の課題である。

November 01 2011

Why Use Book Value to Sort Stocks?

Did you know French and Fama hold a Q&A on their blog (though they call it a forum) ?  Text from a recent entry here:

Data from Ken French’s website shows that sorting stocks on E/P or CF/P data produces a bigger spread than BtM over the last 55 years. Wouldn’t it make sense to use these other factors in addition to BtM to distinguish value from growth stocks?

EFF/KRF: A stock’s price is just the present value of its expected future dividends, with the expected dividends discounted with the expected stock return (roughly speaking). A higher expected return implies a lower price. We always emphasize that different price ratios are just different ways to scale a stock’s price with a fundamental, to extract the information in the cross-section of stock prices about expected returns. One fundamental (book value, earnings, or cashflow) is pretty much as good as another for this job, and the average return spreads produced by different ratios are similar to and, in statistical terms, indistinguishable from one another. We like BtM because the book value in the numerator is more stable over time than earnings or cashflow, which is important for keeping turnover down in a value portfolio.

Nevertheless, there are problems in all accounting variables and book value is no exception, so supplementing BtM with other ratios can in principal improve the information about expected returns. We periodically test this proposition, so far without much success.

October 31 2011

Arturia社の人気のHybridシンセ”ANALOG THE LABORATORY”シリーズに、61鍵バージョンが登場!”32/49″のお得なキャンペーンバンドルも販売中!!

人気のHybridシンセサイザー”ANALOG THE LABORATORY”シリーズに、新たに61鍵バージョン”THE LABORATORY 61″が登場しました!ピッチベンド、モジュレーションホイール、オクターブ+/ [...]
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